上高田 今昔

ちょっと気になる上高田の歴史を知りたい
・・・今、そして未来へと語り継ぎたい上高田の歴史、記憶をこのページを通して皆さんとともに確かめていきたいと思います。


取りあえず現在の上高田を数字で見てみましょう。 何が見えるかな? 数字で見る上高田2014

さて、一枚の写真から・・・、下の写真は上高田の北部、おおむね北町会のエリアです。
撮影は昭和23年1月18日、米軍によるものです。まだまだ空襲の焼跡が痛々しいですね。

   
米軍空撮 上高田北部
 出典国土地理院 国土変遷アーカイブ、米軍撮影空中写真写真名 USA-M737-147、撮影高度 1524m
         撮影 1948年(昭和23年)1月18日
 

昭和20年4月13日の夜から翌14日未明にかけて、米軍のB29爆撃機による空襲でこのあたり一帯は焼け野原となりました。
『中野の戦災記録写真集』(中野区発行 昭和60年8月15日第一刷)の中で、
当時、上高田五丁目に住み警防団副団長だった関田さん(41歳)は、うちの町会はほとんど直撃で焼けました、上高田小学校の屋根の櫓で見張りをしていましたが、学校にも焼夷弾が落ち、校舎は15分で焼け落ちました、と証言しています。(区の資料、学校の沿革では5月25日の空襲で焼失とされています)
この時、幸いにも、上高田小学校の児童は福島県双葉郡波江町や広野町、富岡町等に学童疎開をしていました。
石川さん(44歳・女性)は、父親を亡くしていますが、落合の火葬場も焼けてしまったので杉並の堀ノ内へ遺体を運んだものの、やはり空襲による焼死体が山のようになっていたので、やむを得ず“ヤミ”で特別に火葬してもらったとの証言をしています。

この一枚の写真から、上高田のあの頃の様子や体験をお話しいただける方がいらっしゃれば、運営員会事務局までご連絡ください。
上の写真では上高田小学校の校舎が写っていますが、復旧工事完成は昭和24年2月3日となっていますので、建設途中の時期に撮影されたものと考えられます。

下の写真は上高田地域の南側の写真です。全体を入れるため縮尺は異なります。今は上高田二丁目公園になっている場所に、外語大「日新寮」の建物が写っています。日新寮には童謡“たき火”の作詞者であった巽聖歌と親交のあった新美南吉も住んでいた時期がありました。




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